【  デザイン・ヒストリー 】  Tipo、そして Y

                              (文中の●印は、人物名) ▽1978年にFIATは、イタリアのとあるシンクタンクに依頼を出した。  依頼を受けたのは、   ●レンツオ・ピアノ              ●ピーター・ライス であった。 因みに、ピアノは建築家であり関西国際空港の設計者である。 デザインの基礎は建築にあるという事であろう。 そういえば、彼のミケランジェロでさえ、16世紀にフィレンツェの城壁を デザインした史実がある。 ▽FIAT帝国の狙いは、次世代に備えてクルマのベース・コンポーネントを  見直して、まったく新しい設計方式を模索しよういう判断による依頼である。  その為に、自動車工学の域を抜け出し異なる分野である建築家に発想を求めた。 ▽'78末に、新しいデザイン・センターをFIATの資金で開所した。 そして、デザイン・エンジニアリング集団が結成された。 名は、I・DE・A。  そして、プロジェクロ”VSS”がスタートした。 ▽VSSプロジェクトとは、サブシステム式実験車の設計である。  VSSのスタッフは、イタル・デザインでプロト、製造技術部門に携わっていた  人物たちであった。 ▽VSS構想とは、、、   これから続々開発される新型車のベースを設計するのが目的である。  傘下のAlfa、LanciaとFIATの新型車を開発する都度にベースを設計していては、  開発コストが膨大になるので、ベースは共通化して1つの共有フレームに  しようとする魂胆である。 そして、このベース・シャーシに、各ブランド  (alfa、Lancia、FIAT)のデザインされた外板を張りつければ、外見状は  別々の車になる。 従って、応力負担は外板で受けとめずに、内部フレーム部で 受けるようになる。 外板、もしくはモノコックの外殻は剛性を持ってなくてよい 事になる。 ▽VSSの、スタイリング設計は、●ウオルター・デ・シルヴァ。  (現在(1995)は、アルファ・デザイン・センター) ▽'81にティーポ2/3プロジェクト発足。  ティーポ(Tipo)とは、VSS構想で設計されたシャーシを言う。  "2"とは、車Tipo、145、 "3"とは、DEDRA、Tempra、155のを指す。 ▽上記シルヴァの後任が、●エルコーレ・スパーダになる。 彼のデザイン経歴は、    :ザガート、     フォード(ギャ・スタジオ)、     アウディ80系、     BMW(一世代前の7、5、318をデザイン) ▽DEDRAの提案は、イタル・デザインとの競作に、勝ち、FIATから請け負う。  DEDRAのデザインの中心はスパーダである。 ▽車Tipoのデザインも、FIATデザイン・センターに勝ち採用される。  しかし、FIATの戦略的意図により、車Tipoが先に発表される。 構想"Tipo"の名称自体を、車のモデル名にしたい理由があったのでる。 ▽後年、スパーダはアルファ・デザイン・センターに移籍し、155をデザインする。  これが、155は、I・DE・Aの作だと言われる由縁である。 ▽ブラーボ、ブラーバのデザインは、フィアット・デザイン・スタジオの作となる。  これも、やはりTipo兄弟の一人である。 ▽こうしてTipo構想シャーシは、その後20世紀末の'90年代後半まで、狙い通りに  10年近く使われコスト削減に大いに寄与した。 外見はそれぞれ別デザイン  になるが、内部のフレームと、足回りはTipoであるかぎり共通である。  ▽もし、貴方が車のボンネットを開けてエンジンルームを覗いた時、  コクピットから前方に2本の角の様にフレームが突き出していて、  エンジンを吊って(マウント)いれば、それはTipoシャーシの証しである。  つまり、通常はモノコックの殻にエンジンをマウントするが、Tipoでは  外殻に強度はないので、この内部突起フレームでエンジンを保持してる。 ▽それから、トランク(ハッチゲート)を開けた時、トランクルームに ストラッドタワーが隆起してないならば、それはTipoのサスペンションです。 Tipoのリアは、ストラッドを持たないトレーリングアーム方式です。 これで広大なトランク容量を獲得しようという意図です。 バネ・レートは 高くなるので、ここにサブフレームを与えて剛性も向上させている。 ▽これら足回り、サス方式は、Puntoへ受け継がれました。  ただし、ボディーシェルは踏襲されず一般的なモノコックになった。 ▽Puntoのエクステリアは、巨匠●ジョルジェット・ジウジアーロになる。 それは、彼の御得意とするハイデッキ、ハイトールのデザインである。  Unoの時と同じく、ボディーが背高になってもそれを感じさせないように  巧みにデッサンされている。 ▽一方、LanciaのY10が、フルモデルチェンジの必要に迫られていた。  Y10はそもそも、アウトビアンキ社AシリーズA112の後継として'80年代に  投入された機種である。 FIAT傘下であるアウトビアンキ社の車は、FIAT帝国の  パイロット・モデルの使命を負わされてる。 ▽パイロットである性格上、それには斬新、進歩的な新技術を盛り込まれた  設計となる。 さらに、アウトビアンキは、小型車Aクラスの中において  他とは差別化されて、小型高級車という位置付けになっている。 ▽この高級な小型車というプロダクト設定の為、FIATは販売戦略の見地で  アウトビアンキ車をY10からLanciaブランドにして、市場に投入した。  だから、Lanciaの命名セオリーであるギリシャ文字の、"Y"が与えられた。 ちなみに、付記される10は開発コード・ネームであった。 ▽こうして、Yシリーズは "上品であるが進歩的である"というLanciaの ブランド性を受け継ぎながら、アウトビアンキの血統と混血になり、 現在のYへ至っている。 ▽FIAT社の戦略決定により、1985年Y10の後継モデルの開発スタート させた。 コードネームY11。 当時、FIATチェントロ・スティレから、 Lanciaチェントロ・スティレを、独立させる組織改革が進行中であった。 尚、1990には、●ビットリオ・ギデッラに代り、●パオロ・カンタレッラ がFIAT社長に就任した。 因みに、チェントロ・スチーレとは、デザイン・センターの事。 ▽●エンリコ・フミアが、同センターに、この時迎え入れられた。  それまで、彼は、ピニンファリーナで、チーフデザイナーをしていた。  ・alfa 164  ・alfa GTV/スパイダー  を手掛けた逸材である。 ▽Y11のコンセプト造りは、1991年からFIATの●マリオ・マイオーリのもと、  I.DE.Aで作業された。 ▽●ネヴィオ・ディジュストが、マイオーリの後を引き継ぎ、デザイン・ディレクター  になる。 彼は、FIATの3つのデザイン・センターの統轄責任者でもある。 ▽1992年に、エンリコ・フミアがLanciaチェントロ・スティレの責任者になる。  彼は、社内案やI.DE.A案を無視して、自らスケッチを描き始めた。  ●マッシモ・ゲイは、その社内案を描いていた。 未来志向がに偏り過ぎであった。  ●グレッグ・ブリューも同じく。 彼のデザインはリアハッチを黒くするなど、  先代Y10に近いももので、斬新さが乏しい。  ●ニコラス・クレアは、案すら提出させてもらえなかった。  彼は、ジャンニーニに移る。 彼は、以前にジウジアーロのオリジナル・デルタ  以降のインテグラーレを全て手掛けた実績ある。 ▽8本スポークのホイールも、フミアの当初からのデザインである。  逆に、フミアは2本マフラを提案していたが、生産型では採用されてない。 ▽ドアノブは、握るタイプが多く検討されていたが、結局指を入れる函型になる。 ▽サイドラインの尻下がり曲線は、往年のアウレリアを髣髴させる。 ▽1992年2月、そのY11のフルスケールモデルと、レンダリングを、ディジュスト  に提出した。 即、社長の承認を得、生産化が決定した。 若干の修正として、  各エッジ先端の鋭角は丸められた。 ▽デザインの特徴である、反復される”円弧のクロス”は、フミアがいう、  「機能的な装飾」であり、立体的なスタイリングを強調してる。  それは、常識的なデザインからかなりはずれた個性である。 ▽現在のくるまデザインはチームで行うもの。 が、  Yは、ひとりの人間がスタイリングを、別のひとりが内装を手掛けた。 ▽インテリアのデザインは、●グレッグ・ブリューである。  彼は、ロスアンジェルス・アートセンター・カレッジを出た、33歳のデザイナーで、  1992年に、ディジェストの命によりFIATに移って行った●ピート・デヴィスの後任  である。 尚、ピータ・デヴィスはFIATでヘッドに着任した。 過去にブリューは、採用されなかったデルタ・インテグラーレのデザインをしてる。 ▽I.DE.Aもインテリアの提案していたが、Lancia案に敗れた。 ▽インテリアに関する会議は一度だけであった。 フミアはここでこう述べた、 「我々自身が手に入れたいものをデザインするのだ。 A案とかB案とかだして  奥さん連中に尋ねる様ではではダメだ。 そんなことをしていたら君は  フィエスタを買うはめになるゾ」 ▽中央メータパネルのアイディアは、ピート・デヴィス談によると、社長 パオロ・カンタレッラの発案らしい。 これは、もちろんルノー・トウインゴの 発表前であった。 彼は、プントの縦型リア・ランプを指示したり、クーペFIATの 斬新デザインの承認する等、さらに、バルケッタのドアハンドルの発案と、 それまでデザインでいきづまり模索されて同社に 強い方向付けを続々下した。 ▽当初は、キー・オンにするとメータが浮かび上がるような凝ったものにしたかった  が、コストの面で断念した。 ▽メータに対する視野の考察はこうなされた。ブリュー談。 「メータの目からの距離の基準値は、68cmであったがYは100cmある。  道路から視線をメータに移動させるのは通常のメータより(距離に隔たりが  ないので)簡単である。 頭を動かさなくても、目だけで充分である。」 (田仲注釈: 和国の左側通行ではこうはいかない。詳細は拙著の'98試乗記参照) ▽カンタレッラは実際に、秘書のハンドバッグを借りて来て、モックアックの  ダッシュボード窪みにおいてみた。 ▽ダッシュボードはソフトに仕上げたかったので、シートと同じ素材を用いた。  木目をブリューは嫌っていた。 また、メータを覆うプラスティックも嫌っていたが  これは、ネジを隠すためのものである。 ▽ブリューは、生産の9ヶ月前に、ヨーロピアン・アートセンター・オブ・デザイン  に移って行った。 ▽Y10は、リアに画期的なΩサスを持っていた。 これは4輪操舵の機能を持っていた。  この着想はパイロットケースとして、まずY10にて試され市場に出た。 そして、  この機構の効果が確認されると、PANDAのモデルチェンジ時にも導入されて、  それまでのリジットからΩにそっくり入れ換えられた。 ▽Y11(つまりY)では、Punto同様にTipoの流れを汲むトレーリングアーム方式に  なった。 おそらく、Ω方式はPuntoクラスの大きさのシャーシには無理なので  あろうと思われる。 ▽しかし、このTipo方式のリア・サスは元来、ロール時にキャスター変化を生じる  欠点がある。 たしかに、実際に155、DEDRAを運転しコーナーを攻めると、  リアが砕ける印象は感じる。 幸いに、同クラスのBMW318等に比して明らかに短い、  100インチのショート・ホイールベースのせいでヨーイングを抑えられている。 ▽それで、'99のPuntoではモデルチェンジの際に、リアサスの方式変更があり、 トーションビーム連結型半独立式トレーリングアームとなった。  そして、サブフレーム・レスである。 ▽かたや、alfa-156、GTVはTipoから発展させて独自のサスに変えてます。 ▽Yでは、トレッド幅を拡張する事とバネ等のチューンを施す事によって、  ローリング傾斜を抑制し、一方Puntoより車高が低いのでロールセンターが  低くなることとなり、Tipo方式リアサスの欠点を克服してる。  このため、初代Puntoでの突き上げるハーシュネスが、Yでは生じる事なく、  上質の乗り心地を提供する。  そのせいか、Yではサスの見直しはなされてない。 ▽ダンテ・ジアコーザの末裔なるFIAT & Lancia技術者の靴を履き、  ジウジアーロの下着を着て、  そして、首にブリューのネクタイで、  フミアのソフト・スーツをあおる。  それが、Lancia-Yである。 ▼かように、多くのイタリア車がそうである様にYも、その生いたちには  ある人物の名前から始まっている。  チーム集団が創造した物は商品と言うが、ある逸材なる人物一人が創造した物は  芸術品に近いものになる。 そして、それは車文化の歴史に盛り込まれていく。  Yを操る者は、彼ら芸術家といえるデザイナーとか技術者の秘めたる熱情と歴史を  感じ得ずには乗れはしないだろう。      以上に関して参考文献  □AutoExpress誌 '95-Aug.号 □CG誌'96-Jul.号 by Peter Robinson □CarMagazine誌  '99-Oct.号 □他 多々

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